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積善館について about
元禄七年開業
歴史が息づく宿、積善館
赤い橋を渡ると広がる
特別な空間
浅瀬に透ける川底に陽が煌めき、
深みは光の屈指で翡翠色に染まる―。
美しき四万川に沿った温泉街に掛かる
赤い橋の向こうに「積善館」はあります。
今から三〇〇年の昔、
元禄の世に創業して以来、
当館は変わらず湧き出る四万の湯とともに
訪れる多くの人々を癒してまいりました。
山の斜面に生い茂る木々に囲まれながら、
今日もその面影を残す古き佳き佇まいと
引き継がれた湯治客への心づくし。
湯に浸り、心身を休めてください。
此処には、何もありませんが、
何もしない贅沢があります。
積善館の由来 -積善の家に余慶あり-
積善館は「関(せき)」の姓を名乗る当主によって代々受け継がれて参りました。しかし、祖先は源氏に仕えた「佐藤」姓の武⼠であったと伝えられています。その何代目かの子孫(佐藤肥後守清忠)が、1182年(寿永元年)に源頼朝より下関(現山口県)にあった所領とともに「関」の姓を賜ったことから「関」姓を名乗りました。
その後、関家は関東に移り、何代かの変遷を経て群⾺県吾妻郡中之条町大字大岩に居を構えました。その関家から四万に分家をしたのが、1613年(慶⻑18年)に没した初代「関善兵衛(せき・ぜんべえ)」です。
その後、4代⽬か5代⽬の「関善兵衛」が1691年(元禄4年)に現在の場所に湯場と宿を作り(現在の積善館本館の建物で当初は2階建)、その3年後の1694年(元禄7年)に旅籠宿として開業をしました。⼟地の⼈は「関善兵衛」のことを親しみをこめて「せきぜん」と呼んでいました。
明治時代に⼊り、第15代の関善兵衛が中国の古い儒教の経典「易経」の中にある『積善(せきぜん)の家に余慶(よけい)あり』(善いことを積み重ねた家には、かならず良いことが起こる。)という⾔葉に関連させて、呼び名の「せきぜん」を『積善』と表わし、その下に旅館を表す『館』を付けて、『積善館』という名前にしました。
現在の積善館本館の⽞関に掲げられている⼤きな⽊の看板の「積善館」の ⽂字は、この第15代関善兵衛の筆によるものです。
※看板の⽼朽化が進み、補修が必要になった為に現在は新調したものを掲げております。また第15代関善兵衛の筆による「積善館」の看板は資料室に展⺬されています。
第18代⽬までは「関善平」と名乗っておりましたが、19代⽬からは関家にゆかりのある者が、その想いと歴史を引き継ぎ今⽇まで⾄っております。
四万温泉について
四万温泉の起源、二つの伝説
四万温泉の起源は二説あります。
1つは、桓武天皇(737~806)の御代に征夷大将軍として蝦夷征伐に来た坂上田村麻呂が、この地で入浴したことが始まりという説。
2つ目は、延暦年間(782~806)に源頼光の家臣、日向守碓氷貞光が四万の地に訪れ夜に読経をしていた際、童子があらわれ「汝が読経の誠心に感じて四万(よんまん)の病を治す霊泉を授ける。我はこの山の神霊なり」という神託を夢うつつで聞き、覚めると湧き出る温泉を見つけたというものです。このお告げと温泉に感謝しお堂を建て薬師如来の像をお祀りしたのが、写真左側の「日向見薬師堂」です。
湯治と四万温泉
日本では古くから温泉地に2週間以上長期間滞在して病気の療養をしたり、農閑期などの保養として体を休める習慣がありました。
四万温泉が出てくる古文書によると天和年間(1681~1684)には、四万温泉で温泉宿があったことがわかります。「共同浴場」「湯宿」「蒸し湯」「貸座敷有り」などの記録が残っております。明治二十二年に県道が整備されたことで、人力車や馬車が通るようになり、入浴客が増加。四万温泉は湯治場としてにぎわうようになりました。
国民保養温泉地第一号
四万温泉は昭和29年に国民保養温泉地の第一号に指定されました。
国民保養温泉地とは、
温泉の効能が顕著湧出量が豊富
付近の景観が優れ、環境がよいことなど、
温泉だけでなく環境よい温泉地であるとで環境省により指定されます。
四万温泉 積善館の
歴史年表
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1691 - 1694建築・開業
積善館は元禄4年(1691)に本館を建築、元禄7年(1694)に旅籠として開業いたしました。二階建ての典型的な湯治宿としての当時の面影は、本館玄関のどっしりとした太い梁や柱に残ります。
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1877 明治10年上の壺が存在
現在はございませんが、壱番館のところに「上(かみ)の壺」が存在しました。建設当初は⼆階建て「せがい出し梁造り」の⽯置き屋根で、各室六畳敷で床の間もなく相互の間仕切りはすべて襖で外部とは障⼦で区切られ、⼆階の縁は通路と簡単な炊事場となっていました。この上の棟は、江⼾時代の湯治場の形式を表した建物でした。
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1894 - 1897増築
湯治客の増加に伴い、明治30年頃に書院風の座敷を持つ三階を増築いたしました。
当初は屋外にしか階段が有りませんでしたが、時代に合わせて屋内にも階段が設置されました。 -
1923千人風呂・娯楽室の建築
現在はございませんが、壱番館前に地下に千人風呂、一階に娯楽室を建築。大正のモダンな雰囲気を取り入れた建物だったことが当時の外観写真から見て取れます。
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1930「元禄の湯(前新)」を建築
積善館を代表する元禄の湯は昭和5年に造られました。1階の浴場は鉄筋コンクリート造りの⼤正ロマネスク建築様式でその上に⽊造2階建ての客室をのせる形式をとっています。アーチ形の⼤きな窓は、当時は贅沢な作りで、浴槽と脱⾐所の仕切りがないことも当時の⾯影を残しています。
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1936⼭荘を建築
国の登録有形文化財に指定されている「山荘」は、本館奥の傾斜に当時の建築の粋をあつめて建てられました。
彫刻や工芸の職人の技を駆使して装飾された、これまでに見ない豪華な桃山様式の建物です。 -
1936向新を建築
中之条町に指定されている重要⽂化財「向新」は⾚い橋の向こうに建てられました。⼭荘の残材で造ったと伝わり、復元図⾯によると、当初は客室19室、共同炊事場、共⽤便所からなっておりました。現在は⼀部を「薬膳茶屋」として営業しております。
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1959⼤広間・岩⾵呂の新設など
⼤広間・岩⾵呂の新設や改築に加え、老朽化した建物の鉄筋化を行いました。
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1979壱番館鉄筋化
100年の年月を経過した木造の本館に隣接した上の壺を取り壊し、鉄筋コンクリートの建物を建築。
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1986「佳松亭」を建築
山荘の奥、老松や竹林に囲まれた絶景の地に、風情ある純和風の設えの「佳松亭」を建築。
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2014佳松亭ラウンジ「猩々」 リニューアル
佳松亭のラウンジ「猩々」を山荘の欄間を用いてリニューアル。
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2015山荘「萌黄二」リニューアル
山荘の「萌黄二」のお部屋を半露天風呂付き客室としてリニューアル。
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2016佳松亭「杜・和ふ・波」リニューアル
佳松亭の角部屋3部屋を露天風呂付き客室としてリニューアル。
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2017山荘「茜一」「萌黄一」リニューアル
山荘の「茜一」「萌黄一」のお部屋を半露天風呂付き客室としてリニューアル。
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2018全室禁煙化
多くのお客様の要望、また近年の社会情勢を踏まえ全室客室内禁煙化。
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2018佳松亭中庭リニューアル
庭園設計集団waso-designによりさらなる魅力を加え、新たな庭園としてリニューアルしました。林床に季節によって見ごろの異なる草花を捕植し、四季折々のビューをお楽しみいただけます。
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2019山荘「鬱金一」「瑠璃一」リニューアル
かつて多くの著名人が「ゆっくり読書」をしながら別荘のように過ごしたお部屋を、現在の滞在スタイルに合うお部屋にリニューアルしました。
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2019佳松亭エントランス・フロント・ロビーリニューアル
積善館の家紋を入れた暖簾がお客様をお出迎え致します。ロビーは座ってお手続きができるローカウンターとなりました。
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2019本館の「湯車」再現
かつて源泉を攪拌することなどで活躍した湯車を、明治14年頃の版画とほぼ同じ場所に再現しました。
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2020佳松亭「松風7」リニューアル
佳松亭の角部屋を、モダンな空間にリニューアルしました。温泉内湯付の客室です。
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2020「薬膳や 向新」オープン
中医学理論に基づいた薬膳メニューで体の内側からも健康になってお帰りください。歴史ある建物が生まれ変わった店内も見どころです。
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2021山荘プレミアムラウンジ」オープン
積善館や四万を詠った詩の情景をデザインモチーフに格天井は当時のまま修復。Tannoyのヴィンテージスピーカーを導入し、ゲストが過ごす”何もしない贅沢な時間”に深い余韻をもたらします。
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2021山荘「鬱金5」リニューアル
「組子障子」等、山荘ができた当時からあるものも大切にした、露天風呂付き客室です。
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2022「元禄の湯」修復⼯事
タイルは建築当時の形に修復⼯事するなど昔の姿に戻しつつ快適な空間になりました。
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2022「本館フロント」修復
昔の姿を維持しつつ、より快適な空間になりました。
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2022壱番館休憩処
湯浴みをしたあとにゆったりとおくつろぎ頂ける場所です。日帰りのお客様にもご利用いただけます。
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2022本館 足湯
元禄の湯そばに足湯を新設しました。湯車を眺めながら楽しめる積善館の新たなるスポットです。
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2022昼食処「おいもと釜揚げうどん 積善や」
リニューアルオープン空飛ぶ料理研究家、村上祥子先生にメニュー監修をお願いしたレストランがオープン。健康で胃腸にやさしいメニューをご提供いたします。
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積善館の歴史が作る物語
さんゆうてい えんちょう三遊亭 圓朝 噺家
四万の関(積)善と云う是は
善い宿
江戸時代から明治期に活躍した落語家。江戸落語の大名跡であり落語中興の祖。現代の話言葉に近い口語体、現代日本語の祖としても有名で、怪談噺『牡丹燈籠』『真景累ヶ淵』など多くの作品を創作した。
積善館には明治20年頃、歌舞伎役者の市川團十郎と共に訪れました。その際の群馬での滞在の印象を元に、人情噺『霧隠伊香保湯煙(きりがくれいかほのゆけむり)』を創作。この噺の中で「四万の関善(積善)と云う是は善い宿で」と積善館も登場。当時の積善館でのお客様の滞在の様子もわかる噺です。
圓朝の落語に紹介されています、積善館について「亭主の書斎」にも詳しくまとめております。
やなぎわら びゃくれん柳原 白蓮 歌人
山のあなた
ひるも夜もある灯ひとつ
しつかなるかな 四万のやまなみ
大正から昭和時代にかけて活躍した歌人。2014年のNHK朝の連続ドラマ「花子とアン」その中で花子の生涯の友となる葉山蓮子、後の柳原白蓮。
情熱の歌人と呼ばれ波乱の人生を歩んだ柳原白蓮は四万温泉をこよなく愛し、積善館にもたびたび滞在しました。
「山のあなた ひるも夜もある灯ひとつ しつかなるかな 四万のやまなみ」は四万温泉で詠んだ歌のひとつ。この句は四万温泉内の「ゆずりは公園」に歌碑として残されています。
千と千尋の神隠し
について
映画
積善館が 「千と千尋の神隠し」の
湯屋「油屋」のモデルと言われる理由
2008年7月26日(土)~9月28日(日)まで、東京都現代美術館にて
「スタジオジブリ・レイアウト展」が開催されました。
これは、アニメーションの新たな魅力を発見する展覧会として、日本テレビが主催し、スタジオジブリの全面協力の元に開催されたものです。
そして、この「スタジオジブリ・レイアウト展」の開催前日の7月25日(金)の14:55~15:55に日本テレビより、宮崎駿特別番組として「スタジオジブリ・レイアウト展特番~宮崎監督130分独占インタビュー~宮崎アニメワクワクの秘密」という番組が放映されました。その番組の中で、四万温泉積善館が「千と千尋の神隠し」の湯屋「油屋」のイメージモデルの一つとして紹介されました。その番組中では他のイメージモデルとして、道後温泉の本館、東京の目黒雅叙園が紹介されました。
当館亭主もインタビューを受けて、番組に出演させて頂きました。
積善館に訪れた
多くの文人墨客
▼横スクロールにて表全体を確認できます。▼
名前 | 来館日 | 人物紹介 |
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田崎 草雲 |
明治16年 8月来館 |
明治前期の⽇本画家。⾜利藩⼠。幕末期尊王運動に奔⾛。⼩室翠雲の師。第⼀回内国会が共進会「得宜」受賞。 |
九代 市川 團十郎 |
明治20年頃 来館 |
明治時代に活躍した歌舞伎役者。屋号は成田屋。五代目 尾上菊五郎、初代 市川左團次とともに、いわゆる「團菊左時代」を築いた。落語家三遊亭圓朝と共に来館。 |
三遊亭 圓朝 |
明治20年頃 来館 |
江戸時代から明治期に活躍した落語家。江戸落語の大名跡であり、落語中興の祖。 歌舞伎役者市川團十郎 と共に来館。 |
後藤 新平 |
明治27年 6⽉来館 |
明治・大正の政治家。岩手県出身。 明治25年衛生局長、明治31年台湾民政局長、大正12年山本内閣内相、帝都復興院総裁。 |
徳富 蘇峰 |
大正13年 4月来館 |
明治・大正・昭和の3つの時代にわたるジャーナリスト、思想家、歴史家、評論家。 政治家としても活躍をして戦前・戦中・戦後の日本に大きな影響をあたえた人物である。 |
中村 不折 |
大正3年 8月来館 |
明治・大正期の画家、書家。仏渡帰国後、太平洋画会所属。書に関する中国の古文書を集め、書道博物館設立。 |
七代目 松本 幸四郎 |
昭和20年 8月来館 |
歌舞伎俳優。9代目団十朗の芸風をうけついだ。オペラや翻訳物など新しい分野も開拓。 大東亜戦争中四万に疎開していた。 |
小室 翠雲 |
明治30年以後 しばしば来館 |
明治・大正・昭和の3つの時代にわたるジャーナリスト、思想家、歴史家、評論家。 政治家としても活躍をして戦前・戦中・戦後の日本に大きな影響をあたえた人物である。 |
佐藤 紅緑 |
来館日 未詳 |
明治・大正・昭和期の俳人、小説家。青森県出身。詩人サトーハチロー、作家佐藤愛子の父。正岡子規に師事。 「俳句小史」。少年倶楽部に「ああ玉杯に花うけて」を発表。 |
柳原 白蓮 |
昭和32年 6月来館 以後数回来館 |
大正・昭和期の歌人。東京都出身。北小路資式と結婚、やがて離婚。請われて九州の炭坑王伊東伝右エ門と再婚。 宮崎龍介との恋愛で話題をまき、情熱の歌人といわれた。「踏絵」「幻の華」。ことだま主宰。 |
片山 哲 | 来館日 未詳 |
大正・昭和期の社会運動家、政治家。和歌山県出身。社会民衆党書記長。無産運動に活躍。 敗戦後、社会党書記長、委員長。1947年社会党首班内閣の首相。1690年民主社会党結成、最高顧問。 |
里見 弴 | 来館日 未詳 |
大正・昭和期の小説家。神奈川県出身。有島武郎、生馬の弟。1910年「白樺」創刊に参加。長編小説「多情佛心」「安城家の兄弟」が代表作。 |
土屋 文明 |
昭和20年 11月来館 |
歌人。群馬県出身。伊藤佐千夫に師事。昭和5年「アララギ」の編集発行人。 歌集「ふゆくさ」「住還集」「山谷集」など。「万葉集私注」で芸術院賞受賞。群馬県名誉県民。 |
小野 佐世男 |
来館日 未詳 |
風俗画家、漫画家。神奈川県出身。女性画の第一人者。ほら話が巧み。 「サルサル合戦」「女体戯話」などの画文集。 |
岸 信介 | 来館日 未詳 |
政治家。山口県出身。昭和16年東条内閣の商工大臣。昭和32年首相。 |
榎本 健一 |
昭和20年 来館 |
昭和期の喜劇俳優。東京都出身。浅草オペラの喜劇第一人者。エノケンと呼ばれ、舞台・映画で活躍。 |
丹羽 文雄 |
昭和29年 11月来館 |
昭和期の小説家。三重県出身。「蛇と鳩」「親鸞」など有名。日本文芸家協会理事長。 |
西本 一都 |
しばしば 来館 |
逓信省各地方貯金局長を歴任。昭和39年退官後、長野市に在住。富安風生の高弟。句風は堅実な写生に徹す。 俳誌「白魚火」主宰。句集「景色」「瞽女」など。 |
服部 良一 |
昭和 43年10月、 48年8月来館 |
大阪府出身。エマヌエル・メッテルに師事。日本作曲家協会理事長。昭和54年、勲三等瑞宝章。 「蘇州夜曲」「青い山脈」「東京ブギウギ」など多数のヒット曲を作曲。 |
中曽根 康弘 |
しばしば 来館 |
政治家。群馬県出身。昭和22年、弱冠28歳で初当選。昭和49年自民党幹事長。昭和57年首相。 |